2012年8月7日火曜日

金融行政の流れに変化

金融監督庁が設立されてから金融行政にとって最初の試金石が、日本長期信用銀行(以下、長銀)の破綻処理だった。長銀は九八年五月から、「巨額の不良債権を抱えて経営は立ち行かない」との月刊「現代」の記事をきっかけに株式市場で売り込まれ、深刻な経営危機に陥った。株価は額面の五〇円を割る水準にまで落ち込み、事実上破綻したような状況だった。

ところが、護送船団行政的発想にとらわれていた大蔵省と自民党は長銀の救済にこだわった。「長銀は破綻していない」「債務超過ではない」と強弁し、税金を投入して長銀の事実上の破綻を覆い隠したうえで、住友信託銀行に吸収合併させようとしたのである。

だが、税金による個別銀行救済に対しては国民の批判が強まった。さらに、合併相手とされていた住友信託も長銀の予想以上の不良債権の実態に恐れをなしたため、この救済策は白紙に戻ってしまった。

こうした状況の中で、同年秋の「金融国会」では金融再生法や金融機能早期健全化法が成立した。とりわけ、金融再生法は野党・民主党案を自民党が「丸のみ」した結果、成立したのである。

金融監督庁は同年一〇月二三日、金融再生法に基づいて長銀の破綻を認定し、「特別公的管理」(一時国有化)することを決めた。その際、同年三月末時点で長銀は三四〇〇億円の債務超過であることが発表された。

つまり、大蔵省や自民党が長銀を救済しようとした際の「債務超過ではない」という主張は完全なフィクションであることが、証明されたのである。しかも、その後の調査で債務超過額は際限なく膨らみ、最終的には四兆円近くにもなった。

世論と野党の圧力があったにせよ、金融当局が長銀の破綻を認定したことは金融行政にとって大きな転機だった。大手銀行ではすでに九七年一一月に北海道拓殖銀行の破綻があったが、金融当局や政界により近い存在だった長銀の破綻は、金融業界には衝撃だった。そして、同年十ー月に決まった日本債券信用銀行(以下、日債銀)の破綻は、もっと衝撃的だっただろう。

なぜなら、同行には窪田弘元国税庁長官(五四年入省、東大法)が頭取、会長を歴任していたこともあって、大蔵省は長銀以上に同行の救済・延命に執念を燃やしていたからである。九七年七月には大蔵省主導の「奉加帳方式」で民間金融機関と日銀が合計二九〇〇億円出資して、延命に手を貸した。

しかし、金融監督庁はこれ以上の延命は無理と判断して、破綻を認定したのである。この結果、当時の窪田会長と日銀OBの東郷重興頭取は証券取引法違反(有価証券報告書虚偽記載)の疑いで東京地検に逮捕された。

これらのことから分かるように、日債銀の乱脈経営には長銀以上に大蔵省が深く関与していた。そのため、同行破綻の結果、大蔵省の恥部が鮮明に浮かび上がったのである。従来のように大蔵省が金融行政の権限を独占していれば、このような事態は避けられたはずだ。

人事その他で、大蔵省の「植民地」と思われていた金融監督庁もまた、同様の行動を取るとみられていた。しかし、結果は違った。なぜか。大蔵省から金融監督庁に出向した幹部たちは、同省への忠誠心を持ちながらも、官僚特有の保身の本能も持っていた。


日債銀の救済に固執して無理な延命工作をすれば、破綻後に責任を問われる。しかし、早く破綻を認定してしまえば、その心配はないのである。だが、動機はどうであれ、金融行政の潮の流れは明らかに従来と違った。「財政・金融分離」の効果は確かにあったのである。