2013年8月28日水曜日

未来に引き継ぐべき財産

役所は住民の生活道路と説明するが、何度も行った私が目撃したかぎりでは、ダンプカーとツーリングを楽しむオートバイや四輪駆動車を見かけるぐらいで、住民の車などほとんど走っていない。そのうえ、通行不能になっている林道もいくつかあって、何のためにつくったのかわからないものもある。さすがにもう林道などつくっていないだろうと思っていたら、〈林道予定地に希少129種〉の動植物が生息していることがわかったという記事(『沖縄タイムス』〇八年一一月三日)を目にした。それによると、今も五路線の建設が予定されているという。「生活路」というよりも、県内の建設業者を食わせるがための公共工事なのだろう。それにしても、せっかく沖縄が神からいただき、未来に引き継ぐべき財産を、莫大なカネを使って破壊しているのだから、これほど悲しいことはない。

同じ公共工事でも、たとえば、やんばるの森を三六〇度俯瞰できるような「森の回廊」をつくるなど、森を観光資源として整備すれば、どれほど素晴らしいことか。小さなアマゾンを彷彿させる亜熱帯の森は、沖縄にとって貴重な資産ではないか。そこに敷かれたアスファルトの林道は、言ってみれば森にできた悪性腫瘍にしか見えない。やんばるの森に次ぐ沖縄の資産は、島を取り囲む美しいイノー(礁池)だ。イノーとは、珊瑚礁に囲まれた内側の静かな海域のことで、干潟ができやすい。とりわけ東海岸の泡瀬の海は、中城湾の沖合にある津堅島に向かって遠浅の海岸になっていて、-潮が引くと砂とサンゴでできた干潟が生まれ、天気のいい日には緑や浅黄色のさまざまな美しい色模様を見せてくれる。これが南西諸島最大の泡瀬干潟である。

恩納村のように海に沈む絵のような夕陽は期待できないため、いまだに観光地にはなっていないが、遠浅の海岸に昇る日の出は素晴らしい眺めである。一九七〇年代から九〇年代にかけて、私は『ねじれた絆』という作品をまとめるため、沖縄市で起こった赤ちゃん取り違え事件を取材していた。その頃、与那原町の知人宅を基点に、国道三二九号線を北上しながら沖縄市に通った。たまたま夜明け前に出立することがあり、泡瀬あたりで燃えるような朝日が昇った。遠浅の海を金色に染める曙は、えも言われぬ美しさであった。ニーブヤー(寝坊助)の私は、夜明け前に寝ることがあっても起きることはめったにないのだが、それでも天気のいい日は、暁の泡瀬を見たいと思う衝動を抑えきれないことがあった。

その遠浅の海が泡瀬干潟と知ったのはずいぶん後のことで、埋め立てられるとわかってからだ。日本では、河口付近など波の浸食が少ない場所に泥や砂が堆積した干潟が多いが、川が少ない沖縄では「イノー」と呼ばれるサンゴ礁に囲まれた遠浅の海にでき、サンゴ砂傑からできている泡瀬干潟もそれに近いと思われる。泡瀬干潟を「サンゴ礁干潟」と呼ぶ研究者もいるほどだ。伝説の海人と言われた糸満の故・上原佑強さんによれば、昔の糸満はイノーに囲まれ、近海でもたくさんの魚がとれる豊かな海だったという。当時は海岸に立って海を眺めると、大小五つの島が見えたが、今は埋め立てられて「イェーギナ」と呼ばれる島が、陸つづきながら唯一残っている。いまや想像もつかないが、かつて沖縄の海は、どこもこうした干瀬に囲まれていたのである。

泡瀬干潟を見るたびに、私は干瀬に覆われた沖縄の島々を想像した。そして、徳之島の松山光秀さんが提唱した「コーフル文化圏」に思いを馳せる。松山さんは、徳之島の民族研究から、サンゴ礁の干瀬が続く地域を「コーフル文化圏」と呼び、次のように書いている。〈私か島の周囲をとり巻くさんご礁の干瀬に関心を持ち始めたのは、昭和六十二年(一九八七)の秋のことであった。そのとき私は公務出張のために生まれて初めて沖縄の先島諸島を巡っていたのであるが、行く先々でまちがいなく出あうさんご礁の干瀬の海の風景に心惹かれ、あたかも徳之島から陸伝いに歩いて来たような錯覚にとらわれて、しばし我を忘れてしまったのであった〉そしてこう綴っている。