2013年11月7日木曜日

インドはどこへ向かっているのか?

「ヒンドゥーの聖地を奪還せよ」北インドのウッタループラデーシュ州の東部に、アヨーディヤーという聖地かある。この町はインドの二大叙事詩の一つである『ラーマーヤナ』に描かれる主人公のラームが誕生した場所とされており、ヒンドゥー七大聖地の一つに数えられる。このラームはヴィシュヌ神の化身とされており、多くのヒンドゥー教徒の信仰を集めている。かつて、北インド一帯はイスラームの王朝であるムガール帝国か統治していた。この帝国の初代皇帝であるバーブル大帝は、一五二八年、このアヨーディヤーの地にモスクを建設した。バーブリー・マスジッドと名付けられたこのモスクか、ラーム生誕の地に建てられていたヒンドゥーの寺院を破壊し、その跡地に建立されたと伝えられていたことから、近年、ヒンドゥーナショナリストだちか、その聖地をヒンドゥーのもとに奪還すべきだという声をあげ始めた。この動きは一九八〇年代に急速に高まり、大きな政治問題と化した。

そして、一九九二年一二月六日、事件はおきた。RSS(民族奉仕団)から派生してできた過激派ヒンドゥー・ナショナリスト団体であるVHP(世界ヒンドゥー協会)のメンバーか先頭となり、暴徒化したヒンドゥーの群集が、バーブリー・マスジッドめがけて押し寄せた。手には各々ハンマーなどを持っていた。彼らはいっせいにこのモスクを破壊し始めた。モスクはあれよあれよという間に倒壊した。この事件はインド全土に波及し、各地で暴動事件か起こった。これにより、一〇〇〇人を超える死者か出た。この事件は瞬く間に世界のメディアで報道された。日本の新聞でも大きく取り上げられた。「インド・宗教衝突拡大」「ヒンズー教徒かモスク壊す」そんな見出しか各紙の紙面を飾った。

この事件の後、RSSが創設したBJP(インド人民党)が一九九八年に政権を奪取した。BJPは、アヨーディヤーのモスクの跡地にヒンドゥーのラーム寺院を建設することを公約に掲げ、選挙に勝った。そして、インドの首相の座にはRSSと深い関係をもつA・B・ヴァジパイーが就いた。このヴァジパイーが率いるBJPは、与党め座に就くや否や、核実験の行使に踏み切った。一〇億人の大国インドの右傾化を危ぶむ声がさまざまな方面から発せられた。私はこのアヨーディヤーを一九九九年九月にはじめて訪れた。この事件をリードしたRSSやVHPの活動の調査をするためにである。アヨーディヤーに向かう列車の中で、私は言い知れぬ不安と緊張で震えていた。そして、それと同時に、これまでに味わったことのないような気持ちの高ぶりを感じた。

「あの事件のあったアヨーディヤーにもうすぐで到着する」アヨーディヤーの町がどのような状態なのか、全く予想かつかなかった。町全体にピリピリとした緊張感か漂っているのではないだろうか? 外国人の私か行って大丈夫なのだろうか? そしてRSSやVHPのメンバーとは接触できるのだろうか? やはりアヨーディヤーでヒンドゥー・ナショナリストの調査をするなんて無茶なのではないか? 危なそうだったらすぐにデリーに戻ろう。そんなことを考えているうちに、列車はアヨーディヤーの駅に着いた。私は不安いっぱいで駅のホームに降り立った。駅を出て拍子抜けした。そこにはごくごく普通の、のんびりとした田舎町が横だわっていた。駅前の広場では若者たちか歓声をあげながらバレーボールを楽しんでいた。サイクルリキシャーの運転手は木陰に自転車を止め、昼寝を決めこんでいた。ホテルの客引きも全くいない。リキシャーの運転手がまとわりついてくることもない。駅の出口には牛が座り込んでいる。

これまでに訪れた町にはなかった穏やかな時聞かそこでは流れていた。「ここは本当にあの事件のアヨーディヤーなのか?」それか、アヨーディヤーの第一印象であった。RSS(民族奉仕団)の拠点への訪問翌日、サイクルリキシャーをつかまえてRSSの事務所を探しに向かった。そのサイクルリキシャーの運転手はムスリムだった。「RSSの事務所を探したいのだけど」そう私か言うと、彼は「RSSって何だ?」と言って首をひねっている。「ほら、モスクを壊してラーム寺院を建てようとしているヒンドゥーの右翼だよ」そう私か言うと、彼の顔が一気に曇った。気まずい空気か流れた。