2014年4月17日木曜日

養護学校がもたらす新たな差別

従来の不就学児は、養護学校が痙かったから生まれてきたのかというと、まったくそうではないからである。学校へ行きたい、行かせたい、という多くの子どもや父母の願いを無視して、「来てはいけ攻い、就学猶予・免除願を提出せよ」と強要ずる動きが、校長や教育委員会にみられた事実を、だれもが否定できないはずである。そのいい例が、東京府中市の岩楯恵美子さん(二四)のケースだろう。七歳のとき、父親か死亡し、母親は再婚。そのため彼女は、祖父母に育てられた。小学校の就学時、「おたくのお子さんは体が不自由だから一年待て」と役所にいわれ、一年後には養護学校が満員で入学できず、就学免除にされてしまった。

岩楯さんは脳性マヒ者だが、入学を拒否されたあとは、まったくひとりぽっちの生活を、十六歳まで送り続けねばならなかった。この間、教育行政との接触が皆無にひとしい状態に、放置されていたのである。十六歳で生理か始まり、すでに祖母は死亡していて、祖父の手に負えないため、府中療育センターに入所させられたのであった。しかし、同センターでの度重なる闘争が示すように、そこは 「障害」者にとって、決して居心地のよいところでは涜い。それどころか、「障害」者の人権を奪ってしまう、そういう施設であった、と岩楯さんは私に語ったものである。

岩楯さんは、同センターの隔離収容主義と正面からぶつかり続けるなかで、折から高揚していた「障害」者解放運動に、連帯していった。しかし、「障害」者団体の集会に参加しても、配布されるビラの文字が読めないという現実に直面。そこに、教育の権利を奪われていた幼少児体験が重なって、「学校へ行きたい」という願いが固まっていった、という。そこで、七三年十二月、府中市教委に要求書を提出し、支援の人びととともに市教委、教組、地域などに呼びかけていった。市教委との交渉は翌年十月までに、前後九回行なわれた。市教委側は、「義務教育年齢を超えているから、市に受けいれる義務はない。また現状の施設設備では、受けいれることもできない」とし、九回目の交渉から後は「もういっさい会わない」と通告してきた。

岩楯さんと支援団体の「岩楯恵美子学校へ入る会」は、その要求が、教師集団によっても拒否されることにたったあと、朝の登校時に学校へ行き、子どもたちや教師に入学を訴える登校闘争を開始。いまでも週に二、三度は、この闘いを継続している。しかし。教師たちは校門でピケをはったり、ときには警官隊を導入したりして、岩楯さんの入校をはばんだ。また当初、岩楯さんの要求に理解の態度をみせていた子どもたちも、教師たちや父母の意識と行動の内実を正確に反映し、「変態障害者帰れ」などと、子どもの口から吐き出される言葉とは思えないような、暴言の大合唱をしたりするのである。

もう一つのケースを提示しよう。それは七六年十一月九日付『毎日新聞』(東京)に掲載されたものである。東京渋谷区の社会福祉法人「福田会宮代学園」で暮らす知恵遅れのA子さんに対し、渋谷区教委は七六年四月、「区立松涛中の障害児学級へ通学するのが適当」と就学通知した。これに対して、同学園では「障害者が近くの学校で、一般児童と一緒に教育を受けるのは当然の権利」と通知を拒否。同学園の職員がA子さんに付き添って、近くの区立広尾中に通学を始めたが、教室には入れてもらえないでいる、というのである。