2015年12月15日火曜日

百万円を取り返すのは容易ではない

試みに、相手方に絶対返してもらいたいという状況に直面したとしましょう。そんなときは、まず地方裁判所で裁判を起こします。勝っても、まだ相手が争ってきたら、次に高等裁判所に行きます。さらに最高裁判所まで抵抗され、それが終わるとようやく判決が確定します。

これだけの面倒なことをやればすぐにお金が返ってくるかというと、まだ返ってきません。少なくとも自動的に返ってくるようなシステムにはなっていないのです。その後、強制執行をしなければいけません。強制執行のためには、面倒な書類を書いて、その上で相手の財産を差し押さえなければいけません。

もし相手の財産がどこにあるのか分からなかったら何も差し押さえられず、判決の強制はできません。そのような問題は、昔からありました。著名な某富豪が判決に負けて「なにがしかの金を払え」と命じられた。しかし「それがどうした」と開き直った。

原告はどうしても回収できなかった。もちろん、債務者たる富豪は、銀行口座にたくさんの預金を持っていた。しかし、どこの銀行の何支店に持っているかということが分がらなければ、たとえ裁判で苦労の末に勝訴判決を得ても、ビター文、回収できないのが現実です。

税務署のような国家権力ならば、ある程度は情報があるようです。しかし、普通の人にはそういう情報はありません。またそういう場合に、普通の人が、債務者の財産のありかに関する情報を税務署に教えてもらおうと思っても、税務署は教えてくれません。

税務署は、自分たちがお金を回収するときのためだけに情報を独占していて、普通の人がどんなに気の毒な状態でも、まずほとんど助けてくれないでしょう。それは税務署が悪いのではなく、情報の開示を税務署がやってもいいという法律はないために、そういうことはやりたくてもやれないのです。

2015年11月16日月曜日

円高による邦銀の資金の膨張

いわゆる邦銀の「オーバープレゼンス」(目立ちすぎ)も、円高によるイリュージョンの要素が強かった。邦銀のランクアップも、実はソニーやトヨタをはじめとする製造業の実力で獲得した円の価値上昇(円高)の反映に過ぎなかったわけである。舵取りに当たる私たち金融行政の側にも、その点の認識が不足していたことは、批判されても仕方がない。

私は八〇年前後、ヨーロッパで大使館勤務をしていた。邦銀の海外勤務者は、慣れない仕事に涙ぐましい努力をしていた。七〇年代後半になると日本からあふれ出てきた資金を、外国政府向けにシンジケートローンに組むことが始まる。担当者はそのために外国政府に日参することもあった。トップクラスの金融技術を駆使して世界の金融界をリードしている、というには程遠い姿である。しかしあれが身の丈に合った姿勢だったようにも思う。

その後八〇年代の後半になると、円高による邦銀の資金の膨張によって、わが国の金融の実力は(質でなく量によって)過大評価されることになった。その頃の「国際化」とは外国に進出すること自体であった。地方銀行までが競って、ニューヨーク、ロンドンに支店を出した。八一年三月には、邦銀の海外拠点は三百三十七ヵ所であったが、十年後の九一年三月には、七百五十二ヵ所と二倍以上になる。

製造業についても、例えばフォーチュン誌のアメリカを除く大企業五百社に入る日本企業の数が、八〇年の百二十一社から八五年百四十七社、八八年百五十九社と着実に増えた。この時期には海外旅行者の数が急増し、多くの人々が海外でわが国の経済力の大きさを実感した。

2015年10月15日木曜日

金融の世界に足を踏み入れる

インサイダーやその家族、親戚に至るまでが、M&Aの対象となる会社(売り手、買い手双方)の株を売買することを禁止されるのは当然のことです。M&Aは、最終的には取締役会に付議されて決定します。私かお付き合いした会社のなかには、取締役会で「M&A案件の審議中は役員が会議室から出るのを禁止しよう」との提案がなされた会社さえあります。東証に発表に行くまでの間に。部の役員が離席をして第三者に電話連絡をすることさえも物理的に不可能とする一要は、あらぬ疑いは一切かけられたくない、との発想で取られた措置でした。

こういった会社に比べれば、カネボウの前経営陣は「あまりに法令遵守を無視した」との膀りは免れられないでしょう。日本の都市銀行すべてを合わせても、シティバンクより価値が小さい、時おり次のような質問を受けます。「岩崎さんはなんで金融の世界で働こうと思っだのですか」「金融って、よその人の金を勘定しているようなイメージがあって面白くないんじゃないですか」若い人からも、金融の分野に行こうかどうか就職相談を受けることが少なくありません。「金融の分野に行けば、お金を通じていろんな世界を見れるんじやないでしょうか」「やはり金融機関は安定しているんじやないでしょうか」私は大学を卒業するまで、金融の世界に足を踏み入れることになるなどとは思ってもみませんでした。

私は、どちらかと言いますと貧しい家の生まれでした。小学校時代、友達みんなが自転車に乗ってソフトボールをしにいく時、私だけが自転車を持っていませんでした。一人で懸命に走りながら友達の自転車の後を追いかけだのを、今でも鮮明に覚えています。高校は早稲田の付属でしたが授業料全額免除の大隈奨学金をもらって卒業することができました。

中学・高校とずっと考えていたのは、戦争のことです。『火垂るの墓』のような、戦争の悲惨さを描く小説を読み、日本はなぜあんな戦争を始めたのだろうといつも考えていました。当時の軍隊は、現在で言えば財務省のように、エリートたちが集まり、日本の最高峰の頭脳が結集していたようなところでした。「それが何でこんな間違いをしてしまったのだろう」と。

大学では国際政治を学びました。日本が太平洋戦争を始める前、外務省が最後まで戦争回避の道を探り続けたのを知って、卒業後は外交官の道を行こうと思いました。一次の学科試験に受かった後、外務省の中枢の方々を前にしての面接試験があったのですが、そこで愕然としました。自分が勝手に思い描いていた外務省とはまったく違う姿を見たからでした。

2015年9月15日火曜日

相次ぐ外資との提携

日本の金融機関は、このような外資の席巻するところとなるのだろうか。海外の金融再編成の過程を観察していると、有力な金融機関に共通するパターンは、まず比較優位の分野を伸ばすことに専念し、得意分野で確固たる地盤を築き了えると、今度は相互補完をねらった規模の拡大を目指して活発な買収や提携に乗り出す、というものである。日本のビッグバンの進行と歩調を合わせた数々の提携は、その余勢をがっての日本市場への参入であることはいうまでも
ない。

また、日本側の事情は明白であろう。これまでの護送船団方式の金融行政下で、横並びの経営を行い、先端金融技術や資産運用能力の開発に遅れをとり、不良債権処理の重荷で今後の戦略を独自に描けない本邦金融機関は、外資との提携に活路を見出そうとしているのである。外資にとって、本邦金融機関のもつ顧客リストは魅力であり、自分たちの商品・サービスをそのネットワークを通じて広範な顧客層に販売できれば、過重な投資負担を免れることができる。本邦金融機関は、売り子をしながらノウハウを手に入れようとする。

一方で、信用補強のために外資と組もうとする本邦金融機関もある。日本債券信用銀行とバンカーズートラストの業務提携や、日本長期信用銀行とスイス銀行の提携がこれである。外資の行動のケースースタディとして、後者の提携をとりあげてみよう。
 
スイス銀行と日本長期信用銀行の提携は、スイス銀行の信用を利用して起死回生をはかろうとした長銀と、その金融債消化先など顧客リストに魅力を感じたスイス銀行の思惑によって成立したものといわれた。その内容は三%ずつの株の持ち合い、スイス銀行による長銀の劣後債七〇〇億円、優先株一三〇〇億円の引受、それに投資銀行、投資顧問、プライペートーバンクの分野での合弁会社の設立というものであった。

ところが、スイス銀行は長銀の資産を詳細に調査した後、慎重なスタンスに変わり、優先株引受を繰り延べ、持ち合い比率も一%に切り下げた。しかも、実際に買い入れたのは、株価急落後というタイミングのよさである。

2015年8月20日木曜日

異常な低金利の副作用

バブルとはひと言で言えば日本経済の資産価値の急激な膨張である。資産の主なものは土地であり、株である。一九八〇年代中盤に金利が極端な低水準に据え置かれたことが、土地と株の価格を引上げる直接の契機になった。土地の価値は、理論的に言えば、その土地を活用して生まれる将来収益の現在価値であると言える。

現在価値とは将来生まれる収益の総計を市場金利で割引いたものである。つまり収益は遠い将来になるほど本当に入手できるかどうか不確実性が高まるからリスクが大きい。金利とはリスクの代償だから、金利で総収益を割引いたものが現時点で見たほぼ確実な収益になるわけである。それが土地の理論的な価値であるとすると、当然割引く金利が安くなれば土地の理論的価値は高く見積もられる事になる。

株の場合も同様に金利が下れば債券の現在価値が高まるから、それと連動して株の価値も高く評価されるようになるのである。一九八〇年代中盤に金利が異常に低く引き下げられたのにはいくつかの特殊な理由があった。ひとつは一九八〇年代前半までっづいたアメリ々の高金利の是正にともなって、日本も金利の引下げを余儀なくされたことであり、またいまひとつは一九八〇年代中盤の円高不況脱却の手段として財政政策よりも金融政策に大きく負担がかけられたことである。とくに後者については、政府が財政再建に大きな力点を置いていたために、過度に金融政策に負担がかかり、極端な低金利がしばらくっづけられる結果となった。

いずれにしてもこうした異常な低金利がつづいた結果、土地や株の価値が急激に膨張し、それが投機を呼んで、さらに資産価値が膨張するというバブル経済の異常なスパイラル現象が発生した。企業は急速な株価の上昇期待の下で、いわゆるエクイティーファイナンスによる資金調達を積極的に行うようになった。

新株や転換社債を発行して資金を調達するわけだが、しばらくするとその市場価値は非常に高まるから、投資家はそれを売れば莫大な儲けになり企業側は資金調達コストが殆んどかからないという特殊な状況が発生しており、多くの大企業が争ってそうした戦略を拡大したのである。そうして調達した莫大な資金はさまざまな用途に投資され、いわゆる土地テク、財テクを進めた企業や人々も多かった。つまり、上昇をつづける地価や株価をあてこんで、これに投機をして儲けようとしたのである。

2015年7月16日木曜日

「臨時金利調整法」による金利上限規制

こうした融資拡大戦略における貸出金利の役割について簡単にふれておきたい。戦後、基幹産業へ経営資源を重点的に配分する一環として、「臨時金利調整法」による金利上限規制で低コストで集めた大衆預金を、政府の主導の下に、基幹産業へ傾斜的に投入する人為的な低金利政策がとられ、これが日本の高度成長を支えてきたといわれる。

しかし、借入れ企業の負担した実質的な金利は、名目金利ほど安かったわけではない。個々の貸出金利は当時、業界の自主規制で低水準に抑えられ、借り手の信用度や貸出条件の違いに応じてわずかに異なっていたが、歩留まり預金を考慮した「実効金利」は別であった。つまり、貸し出された資金の」部が、歩積み両建て預金として、実際には使えず預金の形で拘束されたため、名目貸出金利より借り手の実質的な負担は高くなる。融資先の信用に応じた貸出金利の設定をきちんと行うのではなく、現実には預金歩留まり、貿易為替手数料収入などを総合的に勘案し、「とれるところからとる」というのが実態であった。

リスクが高い中小企業へは高い「実効金利」で貸し出すのが経済合理的であるから、名目金利に上限があれば、当然預金歩留まりを高めようとするが、それは優越的地位にある銀行が弱い者いじめをして独占禁止法の精神に違反している、と国会などで槍玉にあがった。大蔵省の通達に従い金融業界は「自粛」の申し合わせをしたが、資金不足の時期には、企業は資金を確保さえすれば、経済成長のなかでなんとか生き残ることができたので預金を積んでも借入枠を確保しようとした。それに応じて貴重な貸出枠を配分するために、銀行も、「自粛」の裏をくぐるためのあらゆる手練手管を考案せざるをえない。

しかし当局は、政治家の批判をかわすために、このような歩積み両建て預金を厳重に監視した。その検査は峻厳を極め、貸出金が預金に化けるあらゆる可能性を発見しようとする驚くべき精緻な作業であった。銀行の意図とは全く関係なくとも、形式的にそのような流れが発見されたら、抗弁の余地なく支店長以下厳重な処分を受けるので、検査対策は膨大な預金元帳の資金の流れを一本ずったどる不毛な作業を深夜まで何日もつづけた。このときは、日本に生まれ銀行員になったことをつくづく呪ったものである。このような不毛な作業は、建て前だけの低金利政策がなければ不要な人的・物的資源の壮大な浪費であるからだ。

2015年6月15日月曜日

転職回数が多過ぎる

即ちジョブホッパーになるということだが、転職の理由がもっともであれば、採用するほうも斟酌してくれる。上司と相性が悪いから転職することは、能力がないからクビにされることよりずっとよい。あなたを採用する新しい上司も転職経験者であろうから、そうした人情の機微は分かってもらえるはずだ。もっともあなたが毎年、転職しているような人材なら、引き取り手はないかもしれないが。上司の「出来不出来」をどう評価するか。好き嫌いと違って、その人間の「出来不出来」は議論が大いに分かれるところだ。誰の視点で能力を見極めるかによって、同じ人に対する評価が一八〇度違うことがある。

こんな状況を想像してみよう。あなたと同じような仕事をする人(つまり将来の同僚)の採用面接に立ち会うとする。その時に、あなたがその人間を脅威と考えるか、チャンスと捉えるかによって対応が違ってくるはずだ。「脅威、将来のライバル」とみなすと、あなたの中でこの採用予定者を排除しようとする意志が働く。排除する理由として「気に食わない、好きになれない」では面接でバツをつける合理的な理由にならないので、あなたは「能力や資質に懸念がある」という理屈をひねり出さなければならなくなる。

そうした際によく使われる拒否理由が、「能力はあるかもしれないが、この仕事に要求されているものとは違う」とか、「力はありそうだが、腰が据わっていない(転職回数が多過ぎる)」、あるいは「能力は申し分ないが、チームプレーヤーとして働くことができるかどうか不安がある」などである。能力を認める振りをして実は認めない、能力と関係のない基準を持ち出す、レッテルを貼る、といった作為をすることで、建前は三六〇度評価の好きな外資系(採用時は特にそうだ)の採用において、自分を脅かす恐れのある未来の同僚を排除できるのである。

もっとも上司が既に採用を決めていて、形式的に面接を行なっている時期は、あなたのバツの評価は考慮されない。かえってマイナス評価をしたあなたを、上司は疑い、疎み始めるかもしれない。だから外資系では採用時にボスが腹を決めていることが分かっている場合には、無難な評価を下し、自分に類が及ばないようにする。ボスの腹がハッキリしない時だけ、我を通すことが可能になる。外資系には敵味方を明確にする文化がある。一方で新しく会社に入ってくる人間を、自分の仲間や協力者だと捉えるならば、積極的に彼らを味方に取り込もうとすることになる。企業風土改革のためには仲間が一人でも多いほうがよいと、面接の最中から社内事情や自分の抱負まで語り始める人もいるかもしれない。

しかし面接時のあなたの言動は、あなたの上司に筒抜けになると覚悟しておく必要がある。面接を受けた人は、あなたから聞いた話を内緒にするといった配慮をせずに、何を聞かれどう答えたか全てを上司に話してしまうかもしれない。その中に少しでも仁司批判と受け取れる内容があれば、仲間として取り込もうとした人間に結果として寝首をかかれる破目に陥るかもしれないのである。外資系では日本企業に比べて、敵味方を明らかにするという風土がある。あれこれ思い悩まずとも自分の敵と味方がハッキリ分かるので、仕事がしやすいとも言える。しかし、中には「味方と見せかけて敵」「敵のように振る舞いながら実は味方」といった複雑な動きをする人間がいるので要注意だ。

2015年5月20日水曜日

研修医の保険医資格の制限

厚生省の中間まとめに大学側は反対し、文部省の科学研究費により一九九五年五月に発足した「大学付属病院における卒後臨床研修の在り方に関する調査研究会」が一〇月末に公表した中間報告で必修化反対を打ち出している。報告書は①臨床研修はすでにほぼ全員が行なっており、法的に義務化することは不適当、②卒後研修、生涯教育には大学付属病院が中心的役割を果たすべきだ、③研修医の保険医資格の制限には研修の効果が下がるので反対する、としており、文部省と大学病院の側では独自に研修を改善するという姿勢を打ち出している。

文部省や大学病院側が反対するのは、この厚生省の案を実現しようとすると、下手をすると″インターン闘争の二の舞い”になるのではという不安があること、研修医を″活用”しているところでは新たなマンパワーが必要になるということ、それに研修医のアルバイトを禁止するので支払う手当や研修医のための研修料を加えると1000億円近くになり、文部省にはとてもその財源がないということもある。

この議論はどちらもそれぞれの主張があるように見える。しかし、ひとつ欠けていることは「国民はどういう医師を希望しているのか」という視点である。医師は大学医学部のために存在しているのではない。まして、文部省や厚生省のために医師という職業があるわけでもない。国民がどういう医師を望んでいるかがカギなのではないかと思う。

多くの国民は医師という技術者に、やさしくて、ヒューマニズムに富み、献身的な人を望んでいる。それとともに、家庭医としてオールラウンドプレーヤーとしての技術を希望し、同時に自分の手に負えないときには適切な診療機関に紹介の労をとってくれるという医師を望んでいるのではないだろうか。

たしかに臓器移植のできる移植医やベンーケーシーのような脳外科医、遺伝子組換えのできるドクターも必要であるが、これらの超専門医といわれる人たちの数は少ないし、こういう人たちは、いまの制度でも十分に出現することはできる。それに専門医を志向するにしても、家庭医としてのコースを歩んだうえで専門医になれば鬼に金棒である。

2015年4月15日水曜日

常在菌は宿主と共存

感染症においても、立ち返るべきは古典ということになるのではないだろうか。ここで抹殺療法的考え方の対極に位置する考え方を、仮に理解療法的考え方と呼ぶとしよう。病原体の存在を容認するのかと誤解されそうだが、この理解というのは容認ではなく、病原体の生態をよく理解するというほどの意味である。そして常在菌による感染症の場合には、抹殺によって治療を行なうことが原理的には不可能だとすれば、逆に何らかの意味での共存が必要とされることになるだろう。

そもそもこれは当然なことで、常在菌は宿主と共存していたのである。そして古典的伝染病と日和見感染症を含めて、宿主と病原体あるいは寄生体の関係として理解することが、的確な対策を立てるための前提となることであろう。そして抹殺療法の指導理念が「隔離あるいは根絶」とすれば、理解療法のそれは「共存」ということになるのではないかと思う。病原体と宿主の関係が緩く、病原体が主導権を担っているものが古典的伝染病ということになる。一方、両者の関係が堅く、宿主の状態が決定的な意味を有するのが日和見感染症である。日和見感染症の場合には、彼らもやはり私たちと同じ原理に基づいて生きている生物であるということを前提として考えたほうが、彼らを正しく理解し、より適切な対策を立てることができると思う。

病原微生物は、健康者に感染しても病気を起こす微生物のことである。したがって原則的には、病原微生物が健康者に常在することはない。もし病原微生物が常在するとすれば、それは宿主が保菌者あるいはキャリアと呼ばれる状態になっているときである。あるいは日和見感染症の研究が進むことによって、古典的な病原体におけるキャリア状態に対する、より良い対策を見いだす可能性も出てくるかもしれないと考えられる。

2015年3月16日月曜日

人は心の持ち方で変わる

人間は集団で生きる動物であり、何らかの形で集団への帰属意識を求めている。個人主義が確立している欧米でも家庭、地域、カントリークラブ、教会など社会の隅々で帰属意識が大切にされている。人事部長のころ、若い部下や他部門の人だちから「会社を辞めたい」と相談されたが、原因のほとんどは仕事の悩みではなく、職場の人間関係だった。人の良いところを見つめ、人と人との間でたくましく生き。成長する人間が増えればよいと願っている。とりわけ若者たちには企業でなくてもいい、自分の居場所と仲間をどこかに見つけてほしい。そこで夢中になれる対象を発見できれば、いつの日か自分の持ち味と個性を生かして目標と夢に向かって進めると思う。

若い人は「夢を持ちたくても持てない」と言うかもしれない。その気持ちもわかるか、自分の可能性を信じて遊びでも何でもいいからまず、行動してみたらどうか。案外そこから道が開ける気がする。将来を担う若者たちに「人は心の持ち方で変わる」と最後にエールを送りたい。2011年3月期決算で、「空調事業グローバルーナンバーワン」(世界販売シェアー位)の目標を達成したダイキン工業、世界の主要な空調メーカーの売上高の比較のグラフを参照。長年の目標を達成した同社はこれからどんな企業を目指すのか。本文庫の発刊にあたって井上会長に経営目標や後継問題など様々なポイントについてインタビューした。井上氏の発言の骨子を項目別に紹介する。

ダイキンは2011年中をめどに、15年度を最終年度とする新中期5ヵ年計画を策定中だ。経営計画や戦略が絵に描いたもちにならぬよう「実行に次ぐ実行」を求めてきた井上。10年度までの5ヵ年計画『フュージョン10』(F10)がもたらした成果と、積み残した課題をどのようにとらえ、新たにどんな計画を打ち出すのか。2006年度にスタートした前半計画(06~08年度、08年度は前半と後半の両方に含まれる)の最初の2年間は、急伸する欧州空調事業などか牽引役となって、当初計画を上回り、08年度目標を1年前倒しで達成できた。これを受けて、最終ターゲットである10年度の目標を上方修正(売上高1兆9000億円、営業利益1900億円)して後半計画(08~10年度)をスタートさせたが、08年秋のリーマンーショックの影響は大きく、10年度は目標値に届かなかった。

グローバル空調事業に資源配分の重点を置いた。マレーシア空調大手のOYL買収、ドイツ暖房機メーカーのロテックス買収、エアフィルターメーカーの日本無機買収、中国の空調最大手の格力電器との提携など、金額面でも質的にも過去とは一線を画すM&A(合併・買収)、提携・連携を思い切って意思決定し、実行した。OYL買収でアプライト(大型空調)事業の強化と北米市場への本格参入の足がかりを作った。格力との提携でインバータ技術のオープン化を進めたことで、中国の空調市場でインバータ化か加速するなど想定以上の成果を収めた。大型M&Aや提携の効果もあり、「空調グローバルーナンバーワン」の目標を達成した。ただ、シナジー効果の発揮は道半ばであり、大きな成果の刈りとりはこれからである。

油機事業の海外展開、特に中国への進出が遅れた。電子事業本部の抜本的な方向性を打ち出せなかった。環境意識の高まりを追い風に、暖房事業、インバータ戦略などを推進した。攻守両面からの環境への取り組みにより、「環境貢献企業」として一定の評価を得た。インバータ戦略、暖房事業などはおおむね進展した。新冷媒についても、業界を主導してグローバルにロビー活動を推進、一定の成果を収めた。機器周辺事業(サービスーソリューション、エンジニアリング)はあまり拡大しなかった。

2015年2月16日月曜日

上父通の要衝と杉林

先の仁淀川町でも棚田の杉は見たが、さらに経過が進んでいるようだ。ここが大豊町で最も人口減少の激しい峰集落である。麓の橋から二〇分ほどのぼったろうか。ようやくDさん(八五歳目当時)の家にたどり着く。平屋の一軒家。中から本人が出てくる。人っていけというが、外で立ち話をする。家には倉庫がついていて横には蔵もある。それなりに豊かな農家だったようだ。しかしその周りは鯵蒼と茂った杉林。杉林の中に隠れたように家があるような案配だ。夫が病気で入院しているという。今日は雪も降った。町長は「頑張りや」と、声をかけて去る。実は、さらにこの先にも一軒あるという。そこへは車は入れない。ここまで役場から三〇分ほど。細い林道を再び降りる。向こうから車がやってきた。買い物帰りだろう。道は普通車が行き交えないほど狭い。バックで二〇〇メートルほど引き返す。

高知県大豊町峰集落は、一九五五(昭和三〇)年には五三戸二三九人が暮らしていた。人口流出を経ていま、コー戸一六人となっている。子供はいない。それどころか五五歳以下がいない超高齢集落である。大豊町には同様の集落がさらにもう一つあるという。「生活の厳しさが原因」と町長は言う。その根幹には「すぐそこに見えるのに、行けない」地形がある。役場のある中心地ですでに標高が二〇〇メートル。そこから周辺の集落にそれぞれのぼっていくわけだが、高いところでは八〇〇メートルまで移動する。しかもその間に川がある。台風などで道が途切れれば死活問題だ。

高知県は限界集落発祥の地である。当時高知大学にいた大野晃氏が、一九八〇年代末にここで行った調査をもとに限界集落の議論を始めた。大豊町に来てみて驚くのは、まず第一に、この過疎高齢化の先進地が、高知市内にある県庁から高速道路を使って約二〇分でたどり着くという、その近さだ。もともと大豊町は、城下町高知と瀬戸内海を山越えでつなぐ街道の宿場町である。国重要文化財にも指定されている立川番所は、四国の大動脈の主要地点であった。いまでも国道三二号、国道四三九号、JR土讃線、さらには高速道路・高知自動車道までもが町の真ん中を貫通する。

大豊インターから入る高知自動車道は、南へ行けば県庁すぐそばに直結、北に向かえばそのまま瀬戸大橋を渡って岡山までつながっている。JRの駅は七つ。交通便利な場所であることからするとなぜここが過疎になるのかと首をかしげたくなる。いやむしろ、交通が便利になりすぎて「素通りの町」になったことが、過疎化の原因の一つかもしれない。しかしまた第二に、地形を見て驚嘆する。先の仁淀川町も顔負けの急峻な地形なのである。これでは町の中心部がいくら交通の要衝にあると言っても、実際に暮らす集落から考えれば、その中心部に出るまでの移動がすでに大変だ。しかし町の中心部にさえ出れば、高知市や瀬戸内海に出るのはあともう一歩でもある。中心都市や工業地帯から近くて遠い場所。大豊町もまたそういうところにあった。

大豊町は、平成合併で単独の道を選んだ。財政的には非常に苦しい。地域に何か産業があるわけでもない。どこにその出口を見つければよいのだろうか。過疎化の原因としては、林業の衰退が最も大きい。それゆえこう考えればよいと岩崎町長は言う。「この杉林。これがお金になればすべて解決する。町の財産と言えば、やはりこの杉だと思う」。大豊町の森林は、国有林は九%のみで、ほぼすべてが民有林である。かつそのほとんどが杉の人工林に変わっている。町ではこれらを、「宝の森林-四七四億円の木」と産出した。これをお金に換えるしかない。逆に言えば、これが経済に変わるなら、町の財政は一気によみがえる。

2015年1月19日月曜日

東証空洞化の危険性

株式売買手数料自由化の動きにしても、すでに七五年五月一日の米国のメーデー、八四年四月一日の豪州、八六年一〇月二四日の英国のビック・バンと実施が拡大され、株式市場の時価総額が世界一となった日本でも遠からず、この開放化はやむにやまれず導入されるであろう。

しかし、銀行と証券の兼営、すなわちユニバーサル・バンク制度をとっている欧州大陸系銀行では、まだこの手数料自由化にはふみきっていない。欧州大陸内の株式市場規模などは実に世界的サイズ全体からみれば零細だし、国民の直接金融方式としての株式市場などは一部の富裕個人と機関投資家の「箱庭」であり、西独のように株式会社も上場会社も減少しかけているほどである。したがって、ナショナルな金融資本市場としてとくに改革を緊急とするほどではないのである。

英国だけは別である。北海原油とシティで国の威信を保っている以上、ニューヨーク・東京と並ぶ三大マネー・センターであり続けるためには、旧態依然たる株式市場では手数料自由化のニューヨーク、活況を続ける東京にはるかに後塵を拝してしまうのである。ここに英国の証券革命(ビッグ・バン)のやむにやまれぬ真の理由がある。

しかし、この自由化は他市場へ伝播せざるをえない。もし、東京市場が現在のような十段階の一・二五パーセントから〇・一五パーセントまでの東京証券取引所「売買委託手数料確定主義」を固守するかぎりは、いずれ東京市場の取引はニューヨークかロンドンへ流れてゆくか
もしれない。

もちろん、ドルやポンド建ての代金決済を行なわねばならないとか、時差とか、市場慣行とか取引所会員資格の有無だとかの問題はあるであろうが、現実の事態はそこまで進みかけているのである。