2015年2月16日月曜日

上父通の要衝と杉林

先の仁淀川町でも棚田の杉は見たが、さらに経過が進んでいるようだ。ここが大豊町で最も人口減少の激しい峰集落である。麓の橋から二〇分ほどのぼったろうか。ようやくDさん(八五歳目当時)の家にたどり着く。平屋の一軒家。中から本人が出てくる。人っていけというが、外で立ち話をする。家には倉庫がついていて横には蔵もある。それなりに豊かな農家だったようだ。しかしその周りは鯵蒼と茂った杉林。杉林の中に隠れたように家があるような案配だ。夫が病気で入院しているという。今日は雪も降った。町長は「頑張りや」と、声をかけて去る。実は、さらにこの先にも一軒あるという。そこへは車は入れない。ここまで役場から三〇分ほど。細い林道を再び降りる。向こうから車がやってきた。買い物帰りだろう。道は普通車が行き交えないほど狭い。バックで二〇〇メートルほど引き返す。

高知県大豊町峰集落は、一九五五(昭和三〇)年には五三戸二三九人が暮らしていた。人口流出を経ていま、コー戸一六人となっている。子供はいない。それどころか五五歳以下がいない超高齢集落である。大豊町には同様の集落がさらにもう一つあるという。「生活の厳しさが原因」と町長は言う。その根幹には「すぐそこに見えるのに、行けない」地形がある。役場のある中心地ですでに標高が二〇〇メートル。そこから周辺の集落にそれぞれのぼっていくわけだが、高いところでは八〇〇メートルまで移動する。しかもその間に川がある。台風などで道が途切れれば死活問題だ。

高知県は限界集落発祥の地である。当時高知大学にいた大野晃氏が、一九八〇年代末にここで行った調査をもとに限界集落の議論を始めた。大豊町に来てみて驚くのは、まず第一に、この過疎高齢化の先進地が、高知市内にある県庁から高速道路を使って約二〇分でたどり着くという、その近さだ。もともと大豊町は、城下町高知と瀬戸内海を山越えでつなぐ街道の宿場町である。国重要文化財にも指定されている立川番所は、四国の大動脈の主要地点であった。いまでも国道三二号、国道四三九号、JR土讃線、さらには高速道路・高知自動車道までもが町の真ん中を貫通する。

大豊インターから入る高知自動車道は、南へ行けば県庁すぐそばに直結、北に向かえばそのまま瀬戸大橋を渡って岡山までつながっている。JRの駅は七つ。交通便利な場所であることからするとなぜここが過疎になるのかと首をかしげたくなる。いやむしろ、交通が便利になりすぎて「素通りの町」になったことが、過疎化の原因の一つかもしれない。しかしまた第二に、地形を見て驚嘆する。先の仁淀川町も顔負けの急峻な地形なのである。これでは町の中心部がいくら交通の要衝にあると言っても、実際に暮らす集落から考えれば、その中心部に出るまでの移動がすでに大変だ。しかし町の中心部にさえ出れば、高知市や瀬戸内海に出るのはあともう一歩でもある。中心都市や工業地帯から近くて遠い場所。大豊町もまたそういうところにあった。

大豊町は、平成合併で単独の道を選んだ。財政的には非常に苦しい。地域に何か産業があるわけでもない。どこにその出口を見つければよいのだろうか。過疎化の原因としては、林業の衰退が最も大きい。それゆえこう考えればよいと岩崎町長は言う。「この杉林。これがお金になればすべて解決する。町の財産と言えば、やはりこの杉だと思う」。大豊町の森林は、国有林は九%のみで、ほぼすべてが民有林である。かつそのほとんどが杉の人工林に変わっている。町ではこれらを、「宝の森林-四七四億円の木」と産出した。これをお金に換えるしかない。逆に言えば、これが経済に変わるなら、町の財政は一気によみがえる。