即ちジョブホッパーになるということだが、転職の理由がもっともであれば、採用するほうも斟酌してくれる。上司と相性が悪いから転職することは、能力がないからクビにされることよりずっとよい。あなたを採用する新しい上司も転職経験者であろうから、そうした人情の機微は分かってもらえるはずだ。もっともあなたが毎年、転職しているような人材なら、引き取り手はないかもしれないが。上司の「出来不出来」をどう評価するか。好き嫌いと違って、その人間の「出来不出来」は議論が大いに分かれるところだ。誰の視点で能力を見極めるかによって、同じ人に対する評価が一八〇度違うことがある。
こんな状況を想像してみよう。あなたと同じような仕事をする人(つまり将来の同僚)の採用面接に立ち会うとする。その時に、あなたがその人間を脅威と考えるか、チャンスと捉えるかによって対応が違ってくるはずだ。「脅威、将来のライバル」とみなすと、あなたの中でこの採用予定者を排除しようとする意志が働く。排除する理由として「気に食わない、好きになれない」では面接でバツをつける合理的な理由にならないので、あなたは「能力や資質に懸念がある」という理屈をひねり出さなければならなくなる。
そうした際によく使われる拒否理由が、「能力はあるかもしれないが、この仕事に要求されているものとは違う」とか、「力はありそうだが、腰が据わっていない(転職回数が多過ぎる)」、あるいは「能力は申し分ないが、チームプレーヤーとして働くことができるかどうか不安がある」などである。能力を認める振りをして実は認めない、能力と関係のない基準を持ち出す、レッテルを貼る、といった作為をすることで、建前は三六〇度評価の好きな外資系(採用時は特にそうだ)の採用において、自分を脅かす恐れのある未来の同僚を排除できるのである。
もっとも上司が既に採用を決めていて、形式的に面接を行なっている時期は、あなたのバツの評価は考慮されない。かえってマイナス評価をしたあなたを、上司は疑い、疎み始めるかもしれない。だから外資系では採用時にボスが腹を決めていることが分かっている場合には、無難な評価を下し、自分に類が及ばないようにする。ボスの腹がハッキリしない時だけ、我を通すことが可能になる。外資系には敵味方を明確にする文化がある。一方で新しく会社に入ってくる人間を、自分の仲間や協力者だと捉えるならば、積極的に彼らを味方に取り込もうとすることになる。企業風土改革のためには仲間が一人でも多いほうがよいと、面接の最中から社内事情や自分の抱負まで語り始める人もいるかもしれない。
しかし面接時のあなたの言動は、あなたの上司に筒抜けになると覚悟しておく必要がある。面接を受けた人は、あなたから聞いた話を内緒にするといった配慮をせずに、何を聞かれどう答えたか全てを上司に話してしまうかもしれない。その中に少しでも仁司批判と受け取れる内容があれば、仲間として取り込もうとした人間に結果として寝首をかかれる破目に陥るかもしれないのである。外資系では日本企業に比べて、敵味方を明らかにするという風土がある。あれこれ思い悩まずとも自分の敵と味方がハッキリ分かるので、仕事がしやすいとも言える。しかし、中には「味方と見せかけて敵」「敵のように振る舞いながら実は味方」といった複雑な動きをする人間がいるので要注意だ。
2015年5月20日水曜日
研修医の保険医資格の制限
厚生省の中間まとめに大学側は反対し、文部省の科学研究費により一九九五年五月に発足した「大学付属病院における卒後臨床研修の在り方に関する調査研究会」が一〇月末に公表した中間報告で必修化反対を打ち出している。報告書は①臨床研修はすでにほぼ全員が行なっており、法的に義務化することは不適当、②卒後研修、生涯教育には大学付属病院が中心的役割を果たすべきだ、③研修医の保険医資格の制限には研修の効果が下がるので反対する、としており、文部省と大学病院の側では独自に研修を改善するという姿勢を打ち出している。
文部省や大学病院側が反対するのは、この厚生省の案を実現しようとすると、下手をすると″インターン闘争の二の舞い”になるのではという不安があること、研修医を″活用”しているところでは新たなマンパワーが必要になるということ、それに研修医のアルバイトを禁止するので支払う手当や研修医のための研修料を加えると1000億円近くになり、文部省にはとてもその財源がないということもある。
この議論はどちらもそれぞれの主張があるように見える。しかし、ひとつ欠けていることは「国民はどういう医師を希望しているのか」という視点である。医師は大学医学部のために存在しているのではない。まして、文部省や厚生省のために医師という職業があるわけでもない。国民がどういう医師を望んでいるかがカギなのではないかと思う。
多くの国民は医師という技術者に、やさしくて、ヒューマニズムに富み、献身的な人を望んでいる。それとともに、家庭医としてオールラウンドプレーヤーとしての技術を希望し、同時に自分の手に負えないときには適切な診療機関に紹介の労をとってくれるという医師を望んでいるのではないだろうか。
たしかに臓器移植のできる移植医やベンーケーシーのような脳外科医、遺伝子組換えのできるドクターも必要であるが、これらの超専門医といわれる人たちの数は少ないし、こういう人たちは、いまの制度でも十分に出現することはできる。それに専門医を志向するにしても、家庭医としてのコースを歩んだうえで専門医になれば鬼に金棒である。
文部省や大学病院側が反対するのは、この厚生省の案を実現しようとすると、下手をすると″インターン闘争の二の舞い”になるのではという不安があること、研修医を″活用”しているところでは新たなマンパワーが必要になるということ、それに研修医のアルバイトを禁止するので支払う手当や研修医のための研修料を加えると1000億円近くになり、文部省にはとてもその財源がないということもある。
この議論はどちらもそれぞれの主張があるように見える。しかし、ひとつ欠けていることは「国民はどういう医師を希望しているのか」という視点である。医師は大学医学部のために存在しているのではない。まして、文部省や厚生省のために医師という職業があるわけでもない。国民がどういう医師を望んでいるかがカギなのではないかと思う。
多くの国民は医師という技術者に、やさしくて、ヒューマニズムに富み、献身的な人を望んでいる。それとともに、家庭医としてオールラウンドプレーヤーとしての技術を希望し、同時に自分の手に負えないときには適切な診療機関に紹介の労をとってくれるという医師を望んでいるのではないだろうか。
たしかに臓器移植のできる移植医やベンーケーシーのような脳外科医、遺伝子組換えのできるドクターも必要であるが、これらの超専門医といわれる人たちの数は少ないし、こういう人たちは、いまの制度でも十分に出現することはできる。それに専門医を志向するにしても、家庭医としてのコースを歩んだうえで専門医になれば鬼に金棒である。
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