2016年4月15日金曜日

イラクのクウェート侵攻

イランと戦争が終結した後の1990年イラクはクウェートに侵攻した。イラクはなぜアラブの同胞でもあるクウェートに侵攻したのだろう。それはイラクの建国にさかのぼる。イギリスがイラク王国を建設したとき、そこはオスマントルコの3つの州であったと述べた。元来クウェートもまだその3つの州のなかの一つバスラ州に属していたのである。しかし、クウェートは英国との間で保護条約を締結して自立的な立場を確保していた。したがってイラクの政権は共和制になって以来クウェートはイラクに帰属するべきだとの主張を繰り返してきた。

90年のイラクのクウェート侵攻は長年の両国関係の延長線上に発生したものである。それを背景として地下でつながっている油田の原油の争奪戦、クウェートからの膨れ上がった債務などが絡んで起きたものである。ここでは、米国は単独ではなく多国籍軍を編成してイラクを叩いた。冷戦時代にはソ連に敵対したタリバンに大量の武器を供与したのも米国であった。9・11後のアフガン攻撃ではタリバンを叩いた。そして、アフガニスタンではタリバン以外の子供や女性、一般市民も誤爆という一言で片付けられながら死んでいった。

イラクでも同じことが行われた。米国によって強大な権力者になったフセイン体制から民衆を救い、民主的なイラクにするためにフセイン体制を崩壊させるべく攻撃を開始した。イラクでも子供・女性・一般市民が戦闘の余波や誤爆や劣化ウラン弾によって死んでいった。化学兵器を用いてタルト人を大量に殺害したフセインだから、大量破壊兵器を製造している可能性が高いということでイラク攻撃に踏み切った。そのような理由で他国を攻撃することができるだろうか。

2016年3月15日火曜日

国民の法的センスとは

陪審員が事実について判断を下すシステムを、刑事裁判だけでなく、民事裁判や、国とか官僚を訴える行政裁判にまで導入すれば、裁判所が「いつも行政追随だ」「業者寄りだ」などと批判されることもなくなるに違いありません。

結果として陪審裁判での評決が「行政追随」や「業者寄り」になったとしても、それが公正な審理であるかぎり、裁判官に批判が集中することもないでしょう。ちゃんとした仕事をしているはずの裁判官まで、痛くもない腹を探られることはなくなるでしょう。

場合によっては、陪審員をうまく説得できない弁護士の問題も明らかになるでしょう。また、賠償金をめぐる問題についても、陪審員が少ない賠償金しか認めないのであれば、それが一般社会の認める賠償水準なのだな、ということがはっきりします。もちろんその反対に、陪審員が加害者の責任を重くみだ場合は、高額の賠償金を払わせることになります。

この点、悪質な企業や病院などは徹底的にやられるかもしれません。しかし誤解してはいけません。悪質な企業はそうでも、まともな企業や誠実な医者はそんな目には遭わないでしょう。それほど国民はバカではないのです。

2016年2月15日月曜日

日本の医療行政

日本の医療行政は誰にでも医療が提供できる体制をつくることに最大限の努力を傾けてきました。日本ほど誰もがどんな病院や医師にもかかることのできる国は少ないのです。乳児死亡率は世界でも最低のレベルに達しています。平均寿命も世界で一、二を争っています。このことは医療関係者の努力として正当に評価すべきでしょう。これはいわば医療の量を確保したことによる成果であり、今後は医療の質が問われる時代になりました。

わが国の医療提供体制は、諸外国と比較しても相当なレベルに達しています。町の診療所から、大学病院までさまざまな種類、規模の医療施設が整備されており、都市部では比較的容易に、しかも病院を選択して診療にかかれるようになっています。一九六一年、自営業者等にも国民健康保険が強制適用となり、国民皆保険が実現されました。医療施設の経営基盤もしっかりしたものになり、医療施設は大量に増加しました。今日では医療費の高騰が大きな問題となり、入院ベッド数の削減や大学医学部の入学定員の削減が行われて
います。

わが国の医療提供体制は、医療法、医師法、歯科医師法、薬剤師法などで規定されています。医師又は歯科医師は都道府県知事に届出をすれば、自由に診療所を開設することができます。これを自由開業制といいます。

一方、国民のほうも自由に医療機関を選択して、診療を受けることができます。これをフリーアクセスといいます。誰もが自由に医療機関を選択できる仕組みはすばらしいものです。外国では、登録医(家庭医)制度といって、あらかじめ決められた医者の診察を受けたうえでなければ、他の医療機関を受診できないところもあります。

自由開業制を一部制限する医療計画というものがあります。医療計画は、多様化、高度化する国民の医療需要に対応して、地域の体系的な医療供給体制の整備を促進するために、医療資源の効率的活用、医療施設相互の機能連携の確保等を目的として制度化されています。都道府県単位の三次医療圏といくつかの広域地域をまとめた二次医療圏があります。

2016年1月18日月曜日

神仏習合から日本文明の心がわかる

仏教は公式には欽明天皇の時代の538年ないし552年に伝来したとされるが、それ以前から朝鮮半島を経由して渡来人によって伝えられていた。その後、蘇我氏の崇仏と物部氏、中臣氏の排仏の争いがあったものの、聖徳太子によって仏教の受容が定まり、以後わが国に仏教が根を下ろすことになったことはよく知られている。

儒教もまた仁徳天皇の代に、百済から博士王仁が『論語』を持って渡来したと「日本書紀」にあり、実際百済から五経博士が渡来していたことはたしかなので、聖徳太子の代より前から朝廷で儒教の教えが講ぜられていたことは疑いない。実際、聖徳太子の十七条憲法の条文や冠位十二階の名称などに儒教の強い影響を見ることができる。

いずれにしろ、仏教と儒教の伝来によって日本の文明は新しい段階を迎えることになる。すなわち、仏教はそれまで日本にあったアニミズムの神々と習合し、先祖の冥福や病気快復を祈る新しい呪術として受容され、儒教は日本の支配権を握った天皇を中心とする権力者の国家統治と支配のためのイデオロギーとしてその後の日本に長く影響力を保つことになる。

仏教と儒教のうち、日本人の宗教心を解明するに欠かせない鍵はむろん仏教にある。ひとくちに儒仏とはいっても、儒教のほうは宗教というより古代の政治イデオロギーと位置づけたほうが正確だからである。

むろん、儒教も宗教的要素はあるわけだが、少なくとも歴史を見るかぎり、わが国では宗教というよりも国家統治と支配のためのイデオロギーと見なすべきである。

だから、日本人の宗教心の本質を探るには仏教、それも大陸の仏教そのものではなく、日本古来のアニミズムから生まれた神々と習合した仏教を軸に分析してゆく視点が不可欠であろう。ここから日本文明の心が見えてくるのである。