2013年12月25日水曜日

現代アメリカ大学の生成淘汰

それでは一九六〇年代から七〇年代末にかけての学生数の拡大が続いた二〇年間に、現代アメリカの高等教育機関は、実際にどのように生成淘汰されていったのであろうか。連邦政府の統計によれば、アメリカの大学・短大は、一九六〇~一九六九年度の一〇年間で。四六二校(公立一三一校、私立一五一校)新設された。ところが閉校は七七校(公立一四校、私立六三校)で、このうち短大は五二校(公立一四校、私立三八校)、閉校数の六七・五パーセントを占めていた。つまり六〇年代の一〇年間は、新設が閉校をはるかに上回っていた。しかし閉校されたのは、大学よりは短大、とりわけ私立短大であり、その閉校数は学費が安く入学自由な公立短大が急速に発展している期間に増えていったのである。つまり公立と私立との競合が私立短大の閉校の主要な原因とみられる。

一九七〇年代(一九六九~一九七九年度)では、新設された大学・短大は四二九校(公立二四八校、私立一八一校)と六〇年代と同じ程度であったが、閉鎖された大学・短大数は六〇年代の二倍、計一五三校(公立二二校、私立ニ二校)にも達している。七〇年代の特徴は、六〇年代には二五校にすぎなかった四年制大学の閉校数が八〇校(公立一校、私立七九校)にも増えたことである。つまり閉校は私立短大だけではなく、私立の四年制大学にも及んできたのである。これらの私大のほとんどは、学生数千人以下の小規模な教養(リペラルアーツ)系の私学であった。

ワシントンにある全米私立大学研究所(NIICU)という団体も、一九七〇年から、私立大学の新設、廃校、合併等の全国調査を続けてきた[NIICU]。これによると私立高等教育機関は、一九七〇年代の一〇年間に少なくとも一一九校が新設されている。新設校のうち五分の四は非宗派系で、四分の三は学生数五〇〇人以下の小規模校で、九五パーセント以上が共学校であった。次に閉校数は、一九七〇年代の一〇年間で一四七校に達した。つまり私学の場合は新設校数よりも閉校数のほうが上回っているのである。閉校数の半分強は宗派系大学で、八五パーセント以上が学生数五〇〇人以下の小規模校であり、ミニ大学の閉校率は異常に高いということになる。

毎年の閉校状況を比べてみると一九七〇年代では年平均一四校の割合で閉鎖されているのに対し、一九七一年だけがダントツに高く、約二倍(二七校)にも達しているのが目立つ。報告書によると、この年はこの一〇年間を通じてアメリカの私学全体の学生数が下降した唯一の時期であったこと、また、ベトナム戦争 お時代の学生の兵役免除特典制度が廃止された年にあたる。つまり学生数の減少が弱小大学の閉校、に大きな影響を及ぼした模様である。

2013年11月7日木曜日

インドはどこへ向かっているのか?

「ヒンドゥーの聖地を奪還せよ」北インドのウッタループラデーシュ州の東部に、アヨーディヤーという聖地かある。この町はインドの二大叙事詩の一つである『ラーマーヤナ』に描かれる主人公のラームが誕生した場所とされており、ヒンドゥー七大聖地の一つに数えられる。このラームはヴィシュヌ神の化身とされており、多くのヒンドゥー教徒の信仰を集めている。かつて、北インド一帯はイスラームの王朝であるムガール帝国か統治していた。この帝国の初代皇帝であるバーブル大帝は、一五二八年、このアヨーディヤーの地にモスクを建設した。バーブリー・マスジッドと名付けられたこのモスクか、ラーム生誕の地に建てられていたヒンドゥーの寺院を破壊し、その跡地に建立されたと伝えられていたことから、近年、ヒンドゥーナショナリストだちか、その聖地をヒンドゥーのもとに奪還すべきだという声をあげ始めた。この動きは一九八〇年代に急速に高まり、大きな政治問題と化した。

そして、一九九二年一二月六日、事件はおきた。RSS(民族奉仕団)から派生してできた過激派ヒンドゥー・ナショナリスト団体であるVHP(世界ヒンドゥー協会)のメンバーか先頭となり、暴徒化したヒンドゥーの群集が、バーブリー・マスジッドめがけて押し寄せた。手には各々ハンマーなどを持っていた。彼らはいっせいにこのモスクを破壊し始めた。モスクはあれよあれよという間に倒壊した。この事件はインド全土に波及し、各地で暴動事件か起こった。これにより、一〇〇〇人を超える死者か出た。この事件は瞬く間に世界のメディアで報道された。日本の新聞でも大きく取り上げられた。「インド・宗教衝突拡大」「ヒンズー教徒かモスク壊す」そんな見出しか各紙の紙面を飾った。

この事件の後、RSSが創設したBJP(インド人民党)が一九九八年に政権を奪取した。BJPは、アヨーディヤーのモスクの跡地にヒンドゥーのラーム寺院を建設することを公約に掲げ、選挙に勝った。そして、インドの首相の座にはRSSと深い関係をもつA・B・ヴァジパイーが就いた。このヴァジパイーが率いるBJPは、与党め座に就くや否や、核実験の行使に踏み切った。一〇億人の大国インドの右傾化を危ぶむ声がさまざまな方面から発せられた。私はこのアヨーディヤーを一九九九年九月にはじめて訪れた。この事件をリードしたRSSやVHPの活動の調査をするためにである。アヨーディヤーに向かう列車の中で、私は言い知れぬ不安と緊張で震えていた。そして、それと同時に、これまでに味わったことのないような気持ちの高ぶりを感じた。

「あの事件のあったアヨーディヤーにもうすぐで到着する」アヨーディヤーの町がどのような状態なのか、全く予想かつかなかった。町全体にピリピリとした緊張感か漂っているのではないだろうか? 外国人の私か行って大丈夫なのだろうか? そしてRSSやVHPのメンバーとは接触できるのだろうか? やはりアヨーディヤーでヒンドゥー・ナショナリストの調査をするなんて無茶なのではないか? 危なそうだったらすぐにデリーに戻ろう。そんなことを考えているうちに、列車はアヨーディヤーの駅に着いた。私は不安いっぱいで駅のホームに降り立った。駅を出て拍子抜けした。そこにはごくごく普通の、のんびりとした田舎町が横だわっていた。駅前の広場では若者たちか歓声をあげながらバレーボールを楽しんでいた。サイクルリキシャーの運転手は木陰に自転車を止め、昼寝を決めこんでいた。ホテルの客引きも全くいない。リキシャーの運転手がまとわりついてくることもない。駅の出口には牛が座り込んでいる。

これまでに訪れた町にはなかった穏やかな時聞かそこでは流れていた。「ここは本当にあの事件のアヨーディヤーなのか?」それか、アヨーディヤーの第一印象であった。RSS(民族奉仕団)の拠点への訪問翌日、サイクルリキシャーをつかまえてRSSの事務所を探しに向かった。そのサイクルリキシャーの運転手はムスリムだった。「RSSの事務所を探したいのだけど」そう私か言うと、彼は「RSSって何だ?」と言って首をひねっている。「ほら、モスクを壊してラーム寺院を建てようとしているヒンドゥーの右翼だよ」そう私か言うと、彼の顔が一気に曇った。気まずい空気か流れた。



2013年8月28日水曜日

未来に引き継ぐべき財産

役所は住民の生活道路と説明するが、何度も行った私が目撃したかぎりでは、ダンプカーとツーリングを楽しむオートバイや四輪駆動車を見かけるぐらいで、住民の車などほとんど走っていない。そのうえ、通行不能になっている林道もいくつかあって、何のためにつくったのかわからないものもある。さすがにもう林道などつくっていないだろうと思っていたら、〈林道予定地に希少129種〉の動植物が生息していることがわかったという記事(『沖縄タイムス』〇八年一一月三日)を目にした。それによると、今も五路線の建設が予定されているという。「生活路」というよりも、県内の建設業者を食わせるがための公共工事なのだろう。それにしても、せっかく沖縄が神からいただき、未来に引き継ぐべき財産を、莫大なカネを使って破壊しているのだから、これほど悲しいことはない。

同じ公共工事でも、たとえば、やんばるの森を三六〇度俯瞰できるような「森の回廊」をつくるなど、森を観光資源として整備すれば、どれほど素晴らしいことか。小さなアマゾンを彷彿させる亜熱帯の森は、沖縄にとって貴重な資産ではないか。そこに敷かれたアスファルトの林道は、言ってみれば森にできた悪性腫瘍にしか見えない。やんばるの森に次ぐ沖縄の資産は、島を取り囲む美しいイノー(礁池)だ。イノーとは、珊瑚礁に囲まれた内側の静かな海域のことで、干潟ができやすい。とりわけ東海岸の泡瀬の海は、中城湾の沖合にある津堅島に向かって遠浅の海岸になっていて、-潮が引くと砂とサンゴでできた干潟が生まれ、天気のいい日には緑や浅黄色のさまざまな美しい色模様を見せてくれる。これが南西諸島最大の泡瀬干潟である。

恩納村のように海に沈む絵のような夕陽は期待できないため、いまだに観光地にはなっていないが、遠浅の海岸に昇る日の出は素晴らしい眺めである。一九七〇年代から九〇年代にかけて、私は『ねじれた絆』という作品をまとめるため、沖縄市で起こった赤ちゃん取り違え事件を取材していた。その頃、与那原町の知人宅を基点に、国道三二九号線を北上しながら沖縄市に通った。たまたま夜明け前に出立することがあり、泡瀬あたりで燃えるような朝日が昇った。遠浅の海を金色に染める曙は、えも言われぬ美しさであった。ニーブヤー(寝坊助)の私は、夜明け前に寝ることがあっても起きることはめったにないのだが、それでも天気のいい日は、暁の泡瀬を見たいと思う衝動を抑えきれないことがあった。

その遠浅の海が泡瀬干潟と知ったのはずいぶん後のことで、埋め立てられるとわかってからだ。日本では、河口付近など波の浸食が少ない場所に泥や砂が堆積した干潟が多いが、川が少ない沖縄では「イノー」と呼ばれるサンゴ礁に囲まれた遠浅の海にでき、サンゴ砂傑からできている泡瀬干潟もそれに近いと思われる。泡瀬干潟を「サンゴ礁干潟」と呼ぶ研究者もいるほどだ。伝説の海人と言われた糸満の故・上原佑強さんによれば、昔の糸満はイノーに囲まれ、近海でもたくさんの魚がとれる豊かな海だったという。当時は海岸に立って海を眺めると、大小五つの島が見えたが、今は埋め立てられて「イェーギナ」と呼ばれる島が、陸つづきながら唯一残っている。いまや想像もつかないが、かつて沖縄の海は、どこもこうした干瀬に囲まれていたのである。

泡瀬干潟を見るたびに、私は干瀬に覆われた沖縄の島々を想像した。そして、徳之島の松山光秀さんが提唱した「コーフル文化圏」に思いを馳せる。松山さんは、徳之島の民族研究から、サンゴ礁の干瀬が続く地域を「コーフル文化圏」と呼び、次のように書いている。〈私か島の周囲をとり巻くさんご礁の干瀬に関心を持ち始めたのは、昭和六十二年(一九八七)の秋のことであった。そのとき私は公務出張のために生まれて初めて沖縄の先島諸島を巡っていたのであるが、行く先々でまちがいなく出あうさんご礁の干瀬の海の風景に心惹かれ、あたかも徳之島から陸伝いに歩いて来たような錯覚にとらわれて、しばし我を忘れてしまったのであった〉そしてこう綴っている。


2013年7月5日金曜日

労働者の質の向上にも限度がある

アダムースミス以来のそうした努力にもかかわらず、いまだに保護主義が閉歩しているということは、保護主義は天動説よりもその打破がむずかしいのかもしれない。本書はそうした試みのひとつなのである。読者は本書を読んで、どれほど「地動説」を信じる気になっただろうか。本書には、保護主義論争以外にも、話題になった論文が収められている。そのひとつが、「アジアの奇跡という幻想」である。この論文で、クルーグマッはアジアの経済発展がまだ未成熟であることを指摘している。クルーグマンの展開した議論は、経済学の専門家のなかではある程度知られていることだが、一九九七年に通貨危機が起きるまで、アジアの奇跡的な成長に関するマスコミの論調を無条件に受け入れてきた一般読者には、この論文はショックであったと思われる。

ここでのクルーグマンの議論は、彼自身による研究というよりは、学界の何人かの研究を紹介したものである。経済成長のダイナミズムの内容を知るための手法として成長方程式というものがある。経済成長を、労働や資本などの生産要素の増加による部分と、技術進歩による部分に分解する手法である。よく知られている事実であるが、先進工業国では経済成長のかなりの部分は生産要素投入の増加ではなく、技術進歩(専門用語で全要素生産性)によって説明される。生産要素の投入によって経済成長すのは、ある意味であたりまえのことである。労働者の数が倍になったり、資本設備が増えれば生産量が拡大するのはあたりまえであるからだ。

そういった経済成長は長続きしない。先進工業国の経済発展が長続きしたのは、それが生産要素投入の増加ではなく、技術進歩によるものであったからだ。統計的な分析でいえば、上記の全要素生産性の貢献部分か大きかったのである。ところが、中国や東南アジアの九〇年代前半までの経済成長の実態を統計的に分析してみると、驚くほど全要素生産性の貢献部分が少なく、成長の大半が生産要素の投入によるものであることがわかるというのが、クルーグマンの主張なのである。要するに、先進工業国から大量の直接投資が入り資本が増大し、そして人々の教育水準があがり労働の質が向上する(これは統計的には労働サービスの増加となる)などの要因によって、アジア諸国は成長してきた。

しかし、直接投資はアジア通貨危機のときのように停止する可能性があるし、労働者の質の向上にも限度がある(高学歴化には限度がある)。アジア諸国の経済成長が全要素生産性に依存するものに転換しないかぎり、これらの国の経済成長はいずれ止まってしまう可能性がある。それは、ちょうどかつてのツ連に似ている。計画経済のなかで生産要素投入を増やして成長したかに見えたツ連であるが、それが全要素生産性による技術革新型の成長に結びつけることができなくて、結局、経済成長が止まってしまったのである。アジアの成長ががってのソ連と似ているという指摘に対しては、異論をもつ人も多かった。現に経済学者のなかからも、クルーグマンの議論はナイーブすぎろとの反論が出た。しかし、少なくともクルーグマンはアジアの成長についてそれが本物であるか否か、もう一度世の中の議論を喚起することには成功したようだ。世界のあちこちで、この章の元になった論文に関してさまざまな議論が行われるようになったのだ。

以上、本書のいくつかの章の元になった論文、を紹介してみた。クルーグマンは本書のなかで、「大学生が国際経済学を学ぶ目的は世の中に横行している俗説をおかしいとわかる能力を身につけることである」といった趣旨のことを記している。これはちょうど、かつてケインズの高弟のジョーンーロビンソンが、「経済学を学ぶ目的は経済学者に編されないためである」と指摘したことに似ている。わたしはこれを、「経済学を学ぶ目的は。エコノミスト”に編されないで自分の頭で考える力をつけることである」と読み替えることにしている。構造調整に直面した日本には多くの経済学的な議論が流布している。

保護主義的な考え方への批判

多くのエコノミストや評論家が競争力あるいは競争という用語をきちっとした定義もないまま用い、そうした議論が政策形成に好ましくない影響を及ぼしているというのがクルーグマンの論調である。当時現役の閣僚であったロバートーライシュ労働長官(それ以前はハーバード大学教授)、ローラ・タイソン大統領経済諮問委員会委員長(それ以前はカリフォルニア大学教授)、著名なエコノミストであるレスター・サウー、保護主義的なスタンスを強くもつ評論家のプレストウィッツなどを名指しで批判したものであったため、それだけ話題性が大きかった。この本のなかでもこの論文が引き起こした反響の大きさを知ることができる。「反論に答える」のなかでは、最初の論文のなかで名指しで批判された人たちが行った反論に対して、再反論が提示されている。

このほか、「貿易をめぐる衝突の幻想」「経済学の往復外交」なども、そうした保護主義論争の一連の議論として読むと面白い。クルーグマンのこの一連の保護主義批判が出たとき、多くの経済学者が喝采したはずだ。実際、当時のアメリカの保護主義論者たちの議論はひどいものだった。しかもそうした人たちが、政府の主要なポストに座ったり、影響力のある評論家(けっして経済学者ではない)として多くの発言をしていたのだ。そうした誤った考え方を正すのも経済学者の使命であるとすれば、クルーグマンの議論のもつ意味は大きかったのだろう。

競争力批判とは違うラインの議論だが、保護主義的な考え方への批判の論文として、「貿易、雇用、賃金」と「第三世界の成長は第一世界の繁栄を脅かすか」も、重要な問題を取り扱っている。「発展途上国の経済発展によってこれらの経済の低賃金労働で生産された商品が大量に輸出され、先進工業国の労働者は失業や賃金下落という大きな被害をこうむっている」。こういった保護主義的な見方が先進工業国のなかに次第に強くなっている。クルーグマンは、こういった議論が、いかに現実の数字の根拠もないいいかげんな議論であるかということを指摘している(共著者のローレンスは著名な国際経済学者である)。アメリカの賃金や雇用に関する問題は、その大半が国内に起因するものである、というのだ。

そのような議論の延長線上で、第4章において発展途上国の経済発展が先進工業国の所得を下げるという議論がいかに根拠のないものであるかということを、いろいろな経済モデルを紹介しながら説明している。クルーグマンの一連の議論を見ていると、かつてMIT(マサチューセッツ工科大学)で彼に貿易論を教えたジャグディッシューバグワティ(現在はコロンビア大学教授でクルーグマンと同じく保護主義批判の評論でも有名)が保護主義に関して用いた比喩を思い出す。保護主義の議論はどこかがっての天動説に似ている。地球は丸いというよりは平らであるという方がわかりやすいし、地球が太陽の周りを回づているというよりは、太陽が地球の周りを回っているという方がわかりやすい。

少なくとも日常の生活感覚ではそうした見方の方がわかりやすい。ガリレオをはじめとする科学者はこうした俗説を打破するため、科学的な事実を世間に受け入れられるような努力を続けてきた。そのため教会という権威とも闘った。いまや、地球は平らであると信じている人は少ないだろう。地球が丸いということを説得的に説明した科学者たちの勝利である。同じような意味で、保護主義者たちの議論はわかりやすい。「アメリカと日本は競争しており、日本の勝ちはアメリカの負けである」、「第三世界からの輸入が増えれば、先進国の労働者は失業する」。こうした、わかりやすい、しかし、誤っている考え方を打破するのは、現代の経済学者の大きな使命である。

保護主義的な考え方

工場閉鎖や製造業の衰退をもちだして、国際競争の脅威を訴える人がいたら、かつてのシカゴと今のロサンゼルスの違いを思い起こして、こう反論しよう。「昔は昔、今は今。アメリカ経済は今もしっかりと機能している」。ポールークルーグマンは、現代の代表的な国際経済学者である。戦略的通商政策、産業内貿易の理論、経済地理学における新理論、為替レートに関するさまざまな研究など、国際経済学において第一人者としての地位を確立しただけでなく、アメリカ経済学会においてもっとも優れた経済学研究を行った四〇歳までの経済学者に贈られるクラークーメダルの受賞者であることからもわかるように、経済学全般に大きな影響力を発揮している経済学者である。

このように優れたアカデミック研究者であるクルーグマンであるが、その活躍は学界だけにとどまるものではない。むしろ最近は、現実の経済政策に積極的に発言することで、ビジネスマンや政策担当者の間でも名前が知られている。日本経済を「流動性の罠」の状態にあると診断し、インフレ期待を創出させる量的緩和が金融政策として望ましいと主張したことも記憶に新しい。彼の政策論評は、他のおおかたの評論家やエコノミストと違い、きちっとした経済学の考え方に基づいたたいへんに切れ味のよいものであり、多くの゛場合、常識的な議論とまっこうから対立するものとして注目される。

経済学者は、長い間、保護主義的な考え方を打破しようとしてきた。アダムースミスの『国富論』は強烈な重商主義批判であるし、リカードの有名な比較生産費説は穀物法という保護主義的な法案に対する批判のなかから生まれた学説である。しかしクルーグマン自身もほかのところで書いているように(記憶に基づいているので表記は正確ではない)、「保護主義は現実経済の複雑化を背景に、形態を少しずつ変えながらしぶとく残っている。経済学者はそうした保護主義を打破して自由貿易主義を広めなければならないが、そのためには経済学者自身が現実の経済の動きをきちっとフォローして自らの議論をアップデイトしなくてはならないのだ」。

こうした意味からは、経済学者なかんずく国際経済学者であるクルーグマンにとって、保護主義の打破は自らの使命であると考えているのだろう。そうした目で見ると、現代のアメリカにおける評論家、エコノミスト、政治家たちの保護主義的な議論のなかには目に余るものがある。そうした誤った俗説、しかし影響力のある俗説を理論的に打破することは、アカデミズムの本流にいるクルーグマンにとって重要な使命である。本書のなかには、クルーグマンのそうした面がはっきり出ている著名な論文が多数収められている。とりわけ「競争力という危険な幻想」はフォーリンーアフェアしス誌に掲載されて以来多くの反響を呼んだものである。





アメリカ経済を懸念する人々

それでは、アメリカ経済のなかで生産性の伸びが大きい産業はどれだろうか。まず、モノ(食料、衣料、自動車など)をつくる分野では生産性が上昇しているが、サービス業の生産性はあまり上昇していない。さらにいうなら、必要な情報をパターン化し、コンピューターやロボットのプログラムを組むことが比較的容易な分野では、生産性が大幅に上昇している。逆に、散髪や医療など情報処理の手順がわかりにくく、きわめて複雑な仕事、つまり、いわゆる常識が重要な要素になっている仕事では、生産性の伸びははるかに低い。

コンピューターやロボットに人間の代わりをさせることができない仕事、人間の感性を必要とする仕事は、直接に人と接するタイプの仕事でもある。農業、製造業、対人サービス以外のサービス業の生産性がきわめて高くなったため、アメリカ経済は他の分野、つまり貿易財以外のモノとサービスを生産することに力を入れるようになっている。その結果、最近では、都市住民の多くが「非輸出ペース」の仕事についている。ロサンゼルス住民の多くが地元で消費されるサービスを生産しているのは、このためだ。ニューヨーク、ロンドン、パリ、それに現在のシカゴでも事情はおなじである。

これでようやく結論に入ることができる。アメリカ経済を懸念する人は多い。これは当然である。アメり力経済は実際に、‘たくさんの問題を抱えている。しかし。、こうした人たちは見当違いの心配をしていることが多い。たとえば、「空洞化」の問題だ。製造業の職はいったい、どこにいってしまったのだろうと嘆く。そして、アメリカ経済が以前と違って、とらえどころがなくなっているのを見て、なんとなく不健全な気がしており、「消費は豊かだが、生産はそうとはいえない」(最近の『国際競争力年報』の言葉)と心配する。

しかし、ロサンゼルスを見るといい。典型的な工業都市ではないが、アメリカの他の大都市とくらべれば、製造業の比率が高いことはたしかだ。統計があれば、ロサンゼルスの工業製品輸出が輸入を上回っていることが、おそらくわかるだろう。ロサンゼルス住民の多くが、目に見えるものを生産しているわけではないが、それは、目に見えるものを生産することが得意なために、目に見えないものの生産にエネルギーを傾けているからである。一〇〇年前のシカゴと違うからといって、いまのロサンゼルスに問題があると考えるべきではない。

いうまでもなく、ロサンゼルスは現在、深刻な不況に陥っている。景気予測が専門のエコノミストは、今の不況はたまたま悪い条件が重なったためだと見ており、大幅な回復を予想している。しかし、今後、ロサンゼルスの景気が回復するにしても、以前とくらべて足取りが鈍くなる可能性もある。技術の進歩によって、二I世紀には別のタイプの都市が繁栄することになるだろう。あるいは、経済がさらにとらえどころがなくなり、全員が都市を脱出できるようになるかもしれない。しかし、ごく近い将来や遠い将来は別として、ロサンゼルス経済、アメリカ経済の見通しを言うならこうなる。外の世界とのつながりはとらえにくい面もあるが、基本的に経済はまともであり健全である。経済がとらえどころがないと、つい不安になるものだが、都市や国の豊かさはそう簡単に衰えたりはしない。

経済がローカル化

もっと別の理由がある。これはなかなか理解してもらえそうにないが、ロサンゼルスが世界に売っている財・サービスの種類は、意外に少ない。つまり、ロサンゼルスで働く人の多くは、遠くの消費者になにかを売っているわけではない。裏を返せば、ロサンゼルスの雇用の多くは、「非輸出ペース」の業種に依存しており、ロサンゼルスで生産される財、そして、とくにサービスの多くは、地元の労働者によって地元の消費者に提供され、地元で消費される。消費するものの種類(ショッピングーモールの店員、弁護士、指圧師、教師などが提供するサービスなど)はどこに住んでもほとんど変わらないため、ロサンゼルス経済が「アメリカに似ている」と感じることになる。

しかし、一〇〇年前のシカゴについても、それがいえるのではないか。いえないことはないが、いまのロサンゼルスほどではない。最近、経済がグローバル化している、あるいは、世界が狭くなっているとよくいわれるが、都市の経済を見ればローカル化が進んでいる。大都市圏に住む労働者のうち、圏内のみを対象にサービスを生産している者の比率は、着実に高くなっている。一八九四年当時のシカゴではおそらく、輸出ベースの雇用が全体の半分以上を占めていた。つまり、労働者の半数以上が精肉、製鉄などの仕事につき、シカゴ製とわかるものを世界に売っていた。現在のロサンゼルスでは、この割合はおそらく四分の一程度にすぎない。

経済がローカル化していることを考慮すれば、世界経済の一見、矛盾する現象も説明がつく。世界生産に対する世界貿易の比率が、一〇〇年前とくらべてそれほど大きくなっていない原因は、ローカル化の進行にある。実際の統計を見てみよう。ブ九九三年には、アメリカの国民所得に対する輸入の比率は一一パーセントとなっている。一八九〇年にはこれが八パーセントであった。露骨な保護主義政策をとっていた一九世紀とくらべて、現在のアメリカ市場が開放されていることを考えれば、この程度の増加は、増加とは呼べない。さらに、当時、他の国は、はるかに貿易依存度が高かった。一八五〇年代のイギリスでは、国内総生産に対する輸出の比率が約四〇パーセントに達しており、現在を上回っていた。

しかし、現在では輸送、通信技術の進歩によって「付加価値連鎖の爆発的な拡大」が可能になったとよくいわれる。台湾のメーカーが、アメリカ製のマイクロプロセッサーにシンガポール製のディスクードライブを接続し、中国製のプラスチックーケースに納めて、アメリカに輸出できるようになっている。このようにモノが行ったり来たりしているにもかかわらず、生産工程が単純だった一九世紀末とくらべて、貿易の比率がそれほど上昇していないのは、なぜだろうか。それは、工業製品の行き来はかつてなく激しくなっているが、その一方で、こうした貿易財がアメリカ経済に占める比重が着実に低下しているからだ。

これは決して偶然ではない。経済と技術の質的な変化に深く根ざした傾向である。まず、一見、矛盾する法則について考えてみよう。時がたつにつれ増えていく仕事は、アメリカ経済が得意な分野の仕事ではなく、不得意な分野の仕事である。アメリカ農業の生産性はきわめて高い。その結果、アメリカは食糧の自給はもとより、世界各国に大量の農産物を輸出しているが、労働人口に占める農業部門の就業者の比率はニパーセントにすぎない。これに対し、レストランで給仕したりレジを打つのに必要な人手は、一〇年一日のごとく変わっていない。アメリカの雇用増加の多くを外食産業や小売業が占めている背景には、こうした理由がある。生産性の伸びが大きい産業では、雇用が増加するのではなく減少する傾向にある。

経済基盤はほとんど影響を受けない

このように、ロサンゼルス経済は、地理的条件とは関係がなくなっているように見える。ロサンゼルス住民が生計を立てるためにしていることは、ほとんどが、どこの都市に住んでもできることだ。一八九四年当時、三〇〇万の人たちがシカゴに住んでいたのは、そこが中西部の玄関口であったからであり、背後に農場、森林、鉱山が控えていたからである。ところが、現在、ロサンゼルスに住む一一〇〇万の人たちは、人がいるからそこにいるのである。ロサンゼルスのまちを1000斗口離れたところにそっくり移したとしても、経済基盤はほとんど影響を受けないだろう。

それなら、経済基盤はどうなっているのだろうか。一〇〇年前のシカゴは、なにで成り立っていたのだろう。現在のロサンゼルスは、なにで成り立っているのだろう。がってのシカゴは、力-ルーサンドバーグが端的に語っているように、「世界の食肉取引の中心地」であった。この他、木材や小麦の取引、農機具の製造、石油精製、製鉄などの産業があったことはいうまでもない。一八九四年当時のシカゴは、モノをつくるか、あるいは中継することで成り立っていた。まちを一回りするだけで、シカゴがアメリカ経済、世界経済のなかでどのような役割を果たしているのか、だいたいはつかむことができた。

それでは、ロサンゼルスはなにで成り立っているのだろう。映画産業で働く一部の人は別として、ロサンゼルスの労働者は、他の都市の労働者とおなじように見える。職場、住宅、さらに、まち全体がどこの都市とも、よく似ている(むしろ、最近はどの都市もロサンゼルスに似ているといった方がよいかもしれない)。郊外のモールで、ホワイトカラーの人波がオフィスビルに吸い込まれ、吐き出されてくる様子を眺めたら、ロサンゼルスの経済と、アメリカの他の大都市の経済との違いをあげるのはむずかしいだろう。この面でも、ロサンゼルス経済には、土地柄を感じさせるようなものはなにもない。

ロサンゼルスの職場はなぜ、これほど外見上の特徴がないのだろうか。ロサンゼルス経済が多様化しているからだと、答えたくなるかもしれない。ロサンゼルス経済が見た目だけでなく、生産しているモノも「アメリカに似ている」からだ、という答えが返ってきそうだ。しかし、それは正解とはいえない。最近、ロサンゼルスが深刻な不況に陥っていることを見れば、多様化しているとはいえないけずである。地域経済学では、その地域の「輸出ベース」と「非輸出ベース」を区別することが多い。「輸出ベース」は、国内、国外を問わず域外に売る財・サしビスのことである。「非輸出ペース」は、域内の消費者を対象としており、保険代理店、ファーストフードの店員、歯科医などが提供する財・サービスがこれにあたる。

この分類にしたがえば、ロサンゼルスの輸出ペースが実際には特化していることがわかる。ロサンゼルスにはさまざまな産業があるが、少数の基幹産業、つまり娯楽、防衛、宇宙航空産業に大きく依存している。つい最近、カリフォルニア州南部が不況の波をまともにかぶっているのは、このためだ。世界の航空機受注の低迷にアメリカの国防費の大幅削減が重なり、地域経済全体が落ち込んでいる。しかし、ロサンゼルス経済がそれほど特化しているとすれば、経済学の手法をもちだすまでもなく、一見してわかるはずではないか。ひとつの答えとして、見た目では職業の区別がつかなくなっていることがあげられる。一〇〇年前には、服装を見れば職業がわかることが多かったが、いまでは、ロサンゼルスの航空機メーカーの従業員は、ニュージャージーの薬品メーカーの従業員と区別がつかない。ロサンゼルス経済がとらえどころがなくなっている理由は、ここにもある。

2013年3月30日土曜日

シャッターを押す前に

水とホコリとカビがカメラの健康を害する三大要素ですが、一年のうちでは、やはり梅雨どきがカメラにとっていちばん苦手な季節でしょう。しかし、雨が降りつづいているからといって、写真を撮らないわけにはいきません。雨の日、池に浮かぶ睡蓮の葉に転がる透明な珠。雨滴がつくる円い波紋。葉脈に踏んばって懸命に口を動かす青虫の幼虫。雨にけぶる濡れた歩道を歩く二人連れIちょっと写真を撮りたくなるようなロマンチックな場面に、あちこちでお目にかかれる季節でもあるからです。

雨からカメラを護るのに筆者が重宝しているのが、ホテルに備えてあるような、透明ビニール製の使い捨てシャワーキャップです。縁にゴムがついているのでとても便利です。三脚を使う場合も、これをカメラの上からかぶせるようにしています。雨の日は大き目の傘をさして撮影しますが、少し降りが強いときは、ゴルフ用の上下のレインウェアで武装します。撮影が終わったら、乾いた布でカメラの隅々まで注意深く拭き取ってやります。

カメラは、何かの拍子に落としたりぶつけたり、思わぬアクシデントに見舞われることがありますが、外傷だけで判断するのは危険です。カメラは高級品になると一千個にもおよぶ部品から組み立てられているので、少しのへこみや衝撃でも中の部品が破損していることがあります。ボディがガタついていたり、振ると音がするようなときは、絶対に自分でネジ回しで開けたりしないでください。どのメーカーにも故障の相談に応じるサービス部門がありますから、そこに持っていくことをおすすめします。

不運にも部品交換が必要な故障でも、日本では経済産業省によって各メーカーは製品の製造を打ち切った時点から、初級機で五年、中級機で七年、高級機で十年間、補修用性能部品を保有することが義務づけられているので、部品。の在庫さえあれば助かる可能性もあります。いずれにせよ、カメラは自分の体と同じだと思って、メンテナンスには十分に気を配ってやりたいものです。次々と最新型のカメラに買い替える人もいますが、ボディのあちこちにキズやへこみができ、角がすり減って黄銅の地金が顔を出しても、鏡胴の黒い焼付けが手擦れで白っぽくなったレンズとともに使いつづけている人もいます。

ボディのキズやへこみは誰にとっても残念な。ものですが、それも時とともに癒え、やがてそのカメラのチャームポイントにさえなってゆきます。たとえキズはあっても、手入れのゆき届いたカメラからは、その人の愛機への信頼と写真に対するボルテージの高さが伝わってきて、思わず心の中で脱帽してしまいます。カメラのボディは頑丈な金属や強化樹脂でつくられているので、多少乱暴に扱ったぐらいで壊れることはありませんが、何度も言うようですが、内部はデリケートな精密機械であることに変わりはありません。毎回とはいいませんが、たまには撮影前にボディからレンズを外して、レンズの表面に指紋や小さなホコリがついていないか点検してみてください。

指紋はレンズクリーナーを使い、表面に傷をつけないようていねいに拭き取ります。ボディの中や裏蓋を開けてよく見ると、パトローネを入れる場所や巻き取りスプールに細かいホコリがついているものです。ブロアーで空気を強く吹きつけ、ゴミやホコリを飛ばしてやります。このような清掃作業を怠っていると、思わぬときに大切なコマにホコリの影が写ってしまい、泣くに泣けない思いをすることがあります。