2013年7月5日金曜日

労働者の質の向上にも限度がある

アダムースミス以来のそうした努力にもかかわらず、いまだに保護主義が閉歩しているということは、保護主義は天動説よりもその打破がむずかしいのかもしれない。本書はそうした試みのひとつなのである。読者は本書を読んで、どれほど「地動説」を信じる気になっただろうか。本書には、保護主義論争以外にも、話題になった論文が収められている。そのひとつが、「アジアの奇跡という幻想」である。この論文で、クルーグマッはアジアの経済発展がまだ未成熟であることを指摘している。クルーグマンの展開した議論は、経済学の専門家のなかではある程度知られていることだが、一九九七年に通貨危機が起きるまで、アジアの奇跡的な成長に関するマスコミの論調を無条件に受け入れてきた一般読者には、この論文はショックであったと思われる。

ここでのクルーグマンの議論は、彼自身による研究というよりは、学界の何人かの研究を紹介したものである。経済成長のダイナミズムの内容を知るための手法として成長方程式というものがある。経済成長を、労働や資本などの生産要素の増加による部分と、技術進歩による部分に分解する手法である。よく知られている事実であるが、先進工業国では経済成長のかなりの部分は生産要素投入の増加ではなく、技術進歩(専門用語で全要素生産性)によって説明される。生産要素の投入によって経済成長すのは、ある意味であたりまえのことである。労働者の数が倍になったり、資本設備が増えれば生産量が拡大するのはあたりまえであるからだ。

そういった経済成長は長続きしない。先進工業国の経済発展が長続きしたのは、それが生産要素投入の増加ではなく、技術進歩によるものであったからだ。統計的な分析でいえば、上記の全要素生産性の貢献部分か大きかったのである。ところが、中国や東南アジアの九〇年代前半までの経済成長の実態を統計的に分析してみると、驚くほど全要素生産性の貢献部分が少なく、成長の大半が生産要素の投入によるものであることがわかるというのが、クルーグマンの主張なのである。要するに、先進工業国から大量の直接投資が入り資本が増大し、そして人々の教育水準があがり労働の質が向上する(これは統計的には労働サービスの増加となる)などの要因によって、アジア諸国は成長してきた。

しかし、直接投資はアジア通貨危機のときのように停止する可能性があるし、労働者の質の向上にも限度がある(高学歴化には限度がある)。アジア諸国の経済成長が全要素生産性に依存するものに転換しないかぎり、これらの国の経済成長はいずれ止まってしまう可能性がある。それは、ちょうどかつてのツ連に似ている。計画経済のなかで生産要素投入を増やして成長したかに見えたツ連であるが、それが全要素生産性による技術革新型の成長に結びつけることができなくて、結局、経済成長が止まってしまったのである。アジアの成長ががってのソ連と似ているという指摘に対しては、異論をもつ人も多かった。現に経済学者のなかからも、クルーグマンの議論はナイーブすぎろとの反論が出た。しかし、少なくともクルーグマンはアジアの成長についてそれが本物であるか否か、もう一度世の中の議論を喚起することには成功したようだ。世界のあちこちで、この章の元になった論文に関してさまざまな議論が行われるようになったのだ。

以上、本書のいくつかの章の元になった論文、を紹介してみた。クルーグマンは本書のなかで、「大学生が国際経済学を学ぶ目的は世の中に横行している俗説をおかしいとわかる能力を身につけることである」といった趣旨のことを記している。これはちょうど、かつてケインズの高弟のジョーンーロビンソンが、「経済学を学ぶ目的は経済学者に編されないためである」と指摘したことに似ている。わたしはこれを、「経済学を学ぶ目的は。エコノミスト”に編されないで自分の頭で考える力をつけることである」と読み替えることにしている。構造調整に直面した日本には多くの経済学的な議論が流布している。